サイコロ追跡中。

サイコロの転がる、その先へ。

--年

--月--日

(--曜日)

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2009年

01月17日

(土曜日)

シャボン玉とんだ。~解釈の喜びと、危険

少し前に面白い個人のページを見つけました。
UDO’s Homepage http://www2.aaanet.or.jp/~udo/framemigi.html

 小学校の教師をされているようで、「学校の先生って一生懸命なんだな」と感心するばかりです。授業の工夫も素晴らしく、授業の技術について掘り下げておられます。これは嫌味でも何でもなく、こんな授業を受けたいな、と思うことしきりです。なんでこんなに褒めるかというと、今回はちょっと意地悪なことを言うからです。でも、最初にことわっておきますが、素晴らしい授業だと思いますし、小学校の国語の授業はこれでいいんだと思いますよ。

 で、本題の「しゃぼん玉」の授業です。ま、一読ください。→シャボン玉授業概要

 さて。「シャボンだま」が、野口雨情のすぐに亡くなった子供のことをうたった作品である、というのは今や常識です。シャボン玉、野口雨情で検索すると、この話、メチャクチャ大量にヒットします。

 それではその常識に、さしたる根拠はない、ということはご存知でしょうか。

 要は、野口雨情がそう言ったわけじゃないということです。これは単なる解釈にすぎないのです。
 ちなみに、野口雨情の息子である野口存彌氏はこの説に関して、あの詩を書いたのはどうやら娘が生まれる前だったようだ、とバッサリ否定しています。

 人は、行間を読むことに喜びを見出す性質があります。野口雨情の詩はどこか悲しみの色を帯びていて、そんな解釈をしたくなるのでしょう。それに、本当にそういう意図で書いたのかもしれませんし。

 物語や詩を読む喜びの一つが、この解釈の喜びです。ですから、国語の授業として間違っているとは思いません。

 しかし、僕はこの授業に恐ろしさも感じるのです。特にこの「しゃぼん玉=亡くなった娘説」がさまざまなブログで事実としてまかり通っているのを見ると、そら寒い思いがします。この授業で使われている技術はいわゆる詐欺の技術と同一なのです。

 人間は信じたいことを言われると、信じてしまうのです。確たる証拠はなくても。そして、その方法は技術として成立しているのです。教師としての立場、授業という枠があれば、話の持っていき方で最初の意見をたった50分で180度ひっくり返すことが可能なのです。そして僕自身もおそらくは日日だまされ続けているものと思われます。大変怖いですね。

 繰り返しになりますが、僕は小学校の授業としては大変素晴らしいと思います。これが中学校の授業だったら頭を抱えます。

 子供はやがて学校で教わることに疑問を抱き、やがてその疑問から自らの知の方法を確立していきます。その土台として、幼少時に強いマインドコントロールを受けた経験が、役に立つことと思われます。問題はその呪縛が解けない人たちがたくさんいるということですが。

 知るとはどういうことなのか。信じるとはどういうことなのか。証明とは何なのか。知る技術。疑う技術。調べる技術。

 願わくば、大学までには以上のことが理解できるような教育を、と思います。
スポンサーサイト

HOME

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。